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雑想 Archive
オタクと呼んでいいものかどうか。
- 2010-06-18 (金)
- 雑想
最近、自分が『オタク』の領域までいっているのかと、Twitterなどをやりながら思います。
link >> おたく – Wikipedia
アニメは良く見ますし、フィギュアも買います。
漫画も読みますし、ここ数年はラノベも読み始めました。
カメラも機材を揃えたりしますし、パソコンも自作をそれなりにやっています。
ゲームは、ほぼFFXIしかやっていませんが、すでに8年近くこればかりやっています。
と、このへんが○○オタクになり得るところかな、と思います。
オタクの定義は、ウィキペディアの内容からすると・・・
- こだわりの対象に対して、所得や余暇時間のほとんどを費やす「消費性オタク」
- 「自分の趣味を周りに広めたい」「創造活動をしたい」と考える「心理性オタク」
という感じらしいです。
この定義だけでいえば、上記はどれもオタクとして呼んでいいような気がします。
ですが、個人的なオタクの語意は、もっとディープで専門的な感じの領域まで踏み込んでいる状態を指しているように思います。
全く興味のない人から見れば、オタクとして通用するかもしれませんが、その分野の好きな人の中ではエセオタクであると思う時が多いです。
例えば、今春から始まった『けいおん!』というアニメがありますが、2期目でありながら初めて見ました。
それまではキャラクター名も知らずにいたのに、ほんの数話見ただけで以前からそのアニメを知っているような素振りを見せたり・・・。
FFXIも8年近くやっていながら、今ひとつ知らないことが多かったりします。
フィギュアも結構買っていて、なおかつそれなりに部屋に飾りながらも大したうんちくも語れません。
そんなことを思っていると、○○オタクと言うことすら憚られる感じです。
この『うんちく』をどれだけ語れるかというのもオタク度の重要な指針ではないかと思います。
オタクという言葉が生まれた初期の頃からその言葉を知っていると、あまりその言葉に良い印象はないかもしれません。
私も最初の頃はあまり良い印象はありませんでした。
ですが、いつの頃からかあまり気にしなくなりました。
気にするのもおかしい気がして、どうでも良くなりました。
ところが、言葉を気にしなくなると、今度はその言葉がふさわしいかどうか気になり出したのです。
先にも書きましたが、全くその趣味を知らない人からオタクと呼ばれても『ああ、そうですね。』で済みます。
しかし、その分野を好きな人の中で本当にオタクであるのかどうかがかなり怪しいのです。
時々、やること成すこと全てがエセに思えてしまうような時もあります。
あらためて自分の趣味を顧みたとき、どれもこれもがエセオタクであるような気がしてならないのです。
わざわざオタクと呼ばれたいと思うことはありませんが、『○○オタクですか?』と言われたときに『そうです。』と胸を張って言える領域にいっていない自分の趣味の中途半端さを痛感する今日この頃です。
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ポジティブシンキングとネガティブシンキング。
- 2010-06-07 (月)
- 雑想
まったくもって気分の変動の激しい私であります。
毎日のブログ更新も特にコレといったネタが思い付かない時はたいてい気分がのっていません。
逆に気分がのっているとアレやコレやと話のネタが沸いてきたりします。
まぁ、その内容が面白いか面白くないかは別として・・・。
リアルタイムに何かを書く時は、多くの場合その時の気分が反映されます。
特にツイッターなどはその傾向が顕著です。
面白い事を思い付くにはやはりポジティブな考え方をしているときが多いです。
ネガティブ思考の時は、どれだけ考えてもツマラナイことしか出てきません。
昔からの思考の傾向がどうもネガティブに偏っている私ですが、時にはポジティブになったりもします。
その機会はあまり多くはありませんが、そうなると相当の力が発揮されていると思われます。
仕事もしかり、趣味もしかり。
私の場合、特にクリエイティブなことをするときにポジティブシンキングは重要に思います。
また撮影の話しで恐縮ですが、気分ののっている時に撮影した写真は自分でもなかなかのお気に入りになったりしています。
この、『のっている』というのが年に何回も無いのが辛いところでありますが・・・。
なかなか感情のコントロールというのは難しいのですが、物事を前向きに考えるというのはあらゆる場面で実践したいと思っていることです。
ついつい後ろ向きに考えてしまいがちな私ですが、そんな時だからこそ前向きに考えられる心の余裕を持ちたいのです。
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「探す」ということ
- 2010-06-04 (金)
- 雑想
仕事でも私生活でも、何かを「探す」ということは多々あると思います。
実は、私はこの『探す』という行為があまり好きではありません。
多くの場合、見つからなくてイライラしたりすることの方が多かったりします。
あそこにしまったハズなのに・・・、ここに入れておいたハズなのに・・・などなど。
自分の記憶力の弱さもありますが、見つかるまでの時間が非常に腹立たしく思うことがしばしばあります。
見つかれば一安心ですが、長時間費やして見つからずじまいということもあったりします。
■ ググる
『ググる』という言葉があります。
Googleで検索して調べるといったような意味合いで使われています。
これも『探す』行為に該当するのですが、これは意外と苦にならなかったりします。
むしろわからないことは積極的に『ググる』習慣もつきました。
もちろん、見つからないことも多々あるのですが、思わぬ情報が見つかることもあるのです。
特にウィキペディアは情報探しのつもりが余計なものまで読み始めてしまったりします。
■ 宝探し
『宝探し』という行為があります。
これもどうかと思います。
ゲームや実際にもあることではあります。
RPGなどでやらされると、これまたイライラするのです。
隠し財産や隠された秘宝などと言うと、ちょっと神秘的な感じはします。
隠された、秘密の、謎の、といったものを探すという行為に魅力を感じる人も多いかもしれません。
ですが、私的にはそれらを探すことにはあまり興味がなかったりします。
■ 『探さない』ということ
と、『探す』という行為は日常によくあることですが、あえて『探さない』という選択肢も良いのではないかと思ったりします。
探さないという割り切りも時には必要なのかな、と思ったりします。
何かを探そうとした時、『探す』→『見つかる』という一連の流れが最良と思っていました。
ですが、『探さない』ということから新たな結果を模索するということも時には最良になり得るのではないかと思います。
例えば、『探す』という行為に長時間費やした結果、『見つかる』という状態になったとしても、『探さない』という選択をしてその長時間を別の有意義なことに費やすことが出来たのなら、『探す』という行為が最良とは限らないと思います。
隠された財宝も、見つからないから魅力的なのです。
物事を進めるにはいくつかの道があると思います。
どうも1本道しか見えないことが多い私ですが、ほんの少しの発想の転換で全く違う道が見えると思うのです。
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